その言葉に敏感な年頃

佐々木恭子アナの「レッドセックス」発言(というか、言い間違い)がいまだに一部で話題になっているようだ。
しかし、日本国民の「セックス」という言葉に対する敏感さはいったい何なのだ。
この言葉に対してはみんな中学生に戻ってしまうかのようだ。


中学生のころは皆その言葉に敏感であった。
「背が高くなります」みたいな「せ」と「く」と「す」が含まれる文章が教科書に出てきただけで、鼻息が荒くなる奴がいたし、楠木正成という名前を聞いただけで射精した奴もいる。
保健体育の授業になると、教室内は異様な雰囲気となり、奇声を発する者も少なくなかった。


という話を書いていて思い出した話がある。
中学の卒業文集で、お互いの印象を書こう、というコーナーがあった。
私はトッシーという男について書くことになった。
トッシーは、体育の着替えのときやトイレだけでなく、プールや海や民家の軒先でチムポを露出する男だった。
露出するだけでなく、立たせたり、振ったり、他の者たちに触らせたりしていた。修学旅行では当然のように、風呂場のお湯が出てくるところにそれを挿入した。
トッシーのチムポは他の追随を許さない大きさで、私の腕くらいの太さがあった。
我々はそれを見るたびにクラクラした。
このように、トッシーの印象といえばチムポしかなく、文集にはチムポのことを書くしかないのだが、それをやると教師に殴られそうな気がしたので、「お前は、僕たちのセックスシンボルだ」と書いた。


後日、文集の編集担当の女子たちの怒る声が聞こえた。「セックスシンボル」などという言葉は文集にふさわしくない、らしい。
こんなことを書く人間はサイテー、らしい。


出来上がった文集では、「セックスシンボル」の部分が削除されていた。
検閲。
これでは私はタダの真面目な生徒ではないか!


削除した女は、後に県内初の女性東大理Ⅲ合格者となった。
淫らな想像から自由であり続けた結果だ。という解釈も可能である。